夏越祭
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・祭り前

八月最後の日曜日。
日はだいぶ傾き、周りはどこもかしこも橙色に染められており、足下の影は長く伸びている。
昼間に比べれば風は涼しいが、少し歩くだけで汗をかく暑さには変わりない。
靴底と砂利のこすれる音を聞きながら、彼は彼女のことを思う。
明日の夏越祭が楽しみだ、と昨日は嬉しそうに何度も繰り返していた。
八月中ほぼ毎日会っているというのに、今日会うのは彼女にとって特別なことのようで、
祭りが苦手な彼も、彼女の家まで迎えに歩くうちに、
祭りに行くのもそう悪いものではないのかもしれない、と思えてきていた。

彼女の家の玄関扉を叩く。
からからと扉が開き、彼女の母親が顔をのぞかせた。
「あら、モナ君。こんにちは」
「こんにちは、おばさん。ナーシャを迎えに来ました」
のんびりしたこの母親から、どうやったらあんな荒ぶる姉妹がうまれるのかと、彼は常々不思議に思っている。
一見のんびりしているように見えて、自分のいないところでは母娘似たようなものなのだろうか。
父親にしても、ぐだぐだと酒に付き合わされることはあるが、荒ぶる印象はない。
「シアー、モナ君が来たよー」
彼女の母親と入れ替わりに、家の奥から元気の良い声が飛んできた。
「はいはーい。おまたせー」
とたとたと床を歩く足音が近づいてきて一旦途切れ、衣擦れの音に代わり、
それから、からころ、と聞き慣れない音と共に、彼女は玄関にあらわれた。
聞き慣れない音は下駄の音だった。
彼女は浴衣姿だった。
のどに言葉がつまり、彼は立ちつくした。
「何」
「いや、その」
「何その妙な間」
気の利いたことを言えればよかったのだが、何も思いつかなかった。
「きれいだな。浴衣姿」
「え」
彼女の表情が少し強張る。
変なところで照れ屋の彼女に直球の褒め言葉をつかうのは、正直いやがらせにしかならない。
が、どうしようもなかった。代わりの言葉は見つからない。
思ったことをそのまま伝えたのだから俺は悪くない、と彼は自分に言い聞かせる。
「おばさーん、お嬢さんは責任を持って護衛いたしますのでー」
家の奥に向かって彼は声を張り上げる。
彼女にぐいと腕を引っ張られた。
「何言ってんだ。行くよ!」
後から、彼女の母親が笑い声混じりで「行ってらっしゃい」と送るのが聞こえた。

雑草混じりの砂利道を二人で歩いていく。
道端の草は夏の間に驚くほど伸びる。
毎年見ているとはいえ、この季節に歩くときはその生長ぶりに目をみはる。
彼は歩調を彼女に合わせてゆっくり歩く。
日は山陰に沈みつつある。
隣を歩く彼女の影も長く伸び、えらく長身に見える。
彼はそのことをからかってやろうかと思ったが、歩くだけで手一杯の彼女を見て、黙っておいた。
彼女は慣れない下駄をはいているためか、ずっと足下に目をやり、いつもに比べて口数が少ない。
ふと、顔をあげて、彼に言う。
「人酔いしそうになったら言ってね。倒れられると、私、連れて帰れないから」
「ああ、うん、そうだな。早めに言おう」
「あと余計なことしゃべらなくていいからね」
まるで彼女の方が保護者のようだ、と心の中で苦笑しつつ、彼は小さな彼女を見下ろす。
「寡黙な護衛に徹しろと、そう仰りたいわけですね」
「そういうこと」
「お嬢様の仰せのままに」
いつものように駅前商店街への近道を行こうと、薄暗い山道の方に一歩踏み出す。
と、慌てた様子の彼女に腕をつかまれた。
「違う違う、そっちじゃないよ」
「おおっと」
「浴衣に下駄の女の子に山の中の近道は無理です」
足をとめ、彼は『浴衣に下駄の女の子』をじっと見る。
浴衣の生地は、白地に濃紺で大ぶりな百合の花の絵が描かれてあるもの。
それに深い臙脂色の帯を締め、後ろで可愛らしく結んである。
帯の上に小さな羽根が乗っかっているように見える結び方だ。
ちょうちょ結びすらできない彼女に浴衣の帯を結べるわけがなく、
おそらく母親にやってもらったんだろうな、と想像して、彼はにやにやする。
「浴衣きれいだよ浴衣」
「何回言えば気が済むんだ」
彼女ににらみつけられた。
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・夜市の空気

「シア、私たち向こうの方を見てくるね」
「わかった。行ってらっしゃい」
「モナムソンさんと上手くやりなよ」
「! ま、待ったーっ」
「またねー」
彼女の友人は、彼女に意味ありげに笑いかけて手をひらひらと振り、
彼に「この子をよろしくお願いします」と軽く会釈をし、
説明不足でぽかんとしている恋人の手を強引に引いて、人込みに消えていった。
そして、彼女と彼が残された。

「何か誤解が何か誤解が」
彼女は人込みを呆然と見つめている。友人たちの姿はもう見えない。
彼は彼女の肩をぽんと叩き、言葉をかける。
「若人は若人同士、仲良くさせておきなさい」
彼女は恨みがましい目で彼を見上げる。
「わたしも若人だよ」
彼女から聞いた計画はこうだった。
――彼女の友人に、今年も一緒に夜市に行こうと誘われたが、今年は、彼女の友人には恋人がいる。
だから、彼女は彼を誘い、四人で夜市に行くことにして、途中で、彼女の友人とその恋人をさりげなく二人きりにしてあげよう。――
「こっちから離れる手間が省けて良かったな、ナーシャ君」
彼はふきだしたくなるのをこらえて、大真面目に言う。
どうみても、気を遣われたのは彼女の方だった。
彼女は肩をがっくりと落とし、大仰にため息をついてみせる。
「ああもう何だか空回り」
「結果良ければすべて良し」
「……そうかな」
「そうですよ。さーて、酔う前に帰ろう」
何気なく口にした言葉に、彼女はさっと顔を曇らせ、心配そうに彼を覗き込んだ。
「気分悪いの? 大丈夫?」
「ああ、いや、思ったより大丈夫だ。まだ他にも行きたいところがあるなら、付き合うが」
安心した、と、ほうと小さく息をつき、いつもの彼女に戻る。
「モナムソンは? 行きたいところ、ある?」
彼はざっと辺りを見渡す。
深い群青色の夜空の下、通りに飾り付けられた揺らめく灯りの列に沿ってたくさんの屋台がたち並び、
客寄せの声や熱気と共に甘い匂いや香ばしい匂いが漂っている。
彼女に引っ張られていろいろ食べ歩いたので、もうお腹はいっぱいだ。
だが、せっかく駅前商店街まで足を伸ばしたのだ。
「じゃ、アリーツィに挨拶していこうか」

ひとの流れをかきわけ、屋台のひとつにたどりつく。
きらきらとした小間物やら古本やら妙なくじ引きやら、ごちゃごちゃと屋台正面の机の上に並べてある。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような、何でもありの品揃えのようだ。
彼の友人が品物を入れた紙袋を客に手渡しているところが目に入った。
「やあ、アリーツィ君、お元気ですか」
「アヒャ!」
「こんばんは、アリーツィさん」
めったなことでは驚かない彼の友人が、目を真ん丸にして彼を凝視する。
屋台の前だと客の流れの邪魔になりそうで、二人は机の後ろの売り子側の方に、隣の屋台との隙間からひょいと入り込んだ。
入るなり、彼女は友人に頭をわしゃわしゃと乱暴にかきまぜられた。
きゃーとかひゃーとか小さな悲鳴をあげて、彼女は耳を伏せる。
「夜市でモナを見るとはな! シアすごいよシア」
どうやら彼女のことを褒めているらしかった。
「いやそんな宇宙人発見したかのような」
友人のあまりの驚きぶりに、彼は少したじたじとなる。
「頑として動かなかったのに、シアの言うことは聞くんだな」
「モナムソン、誘われたこと、あるの?」
「姉ちゃんとオレで毎年誘っては断られ、を繰り返してたんだぜ。シアは小学校入る前だから覚えてねえよな」
この友人は、彼女の姉と仲が良かった。
彼女の姉は中身は恐ろしかったが外見は美しく、
友人は友人で、男女どちらかは知らないのだが――彼はこの友人のことを男だと思っている――、
やはり間違いなく美形の方に分類される外見で、
二人が一緒にいるところを見るのは、その風景だけ周りとなんとなく違和感があって、面白かった記憶がある。
「ルマ姉とアリーツィの恋の逢瀬を邪魔するのもどうかと思ってな」
冷やかすように、彼は言う。
友人は長い尻尾をいらだたしげにぱたぱたと動かし、しかめっ面をしてみせた。
「今更とってつけたような言い訳するな。あんなひでえ逢瀬があるか。
 姉ちゃん次から次に景品当てるから荷物持ち大変だった記憶しかねえよ」
恋人同士ではなかった。あれはただの友人同士だった。それは知っている。
二人がお互いにどう思っていたのかは、彼にはわからない。
以前友人に訊いたがはぐらかされた。彼女の姉はもういない。
彼の隣で、彼女が静かに耳を傾けている。
「射的と輪投げと型抜きの腕の良さは異常。ほんとに祭の神だったよ、ありゃ」
うんうん、と自分の言葉に相づちを打つかのように、友人はうなずく。
「シアはしねえのか、射的」
「しないよ。あの音嫌い」
花火だとか運動会の合図だとか鼓笛隊の打楽器だとか、そういったものは全部嫌い、と彼女は続ける。
耳が聞こえすぎるのも考えものだなあ、と思いつつ、彼は彼女の丸い耳を見る。
日の光の下で見る彼女の耳は真っ白できれいだと思うが、夜市の淡い灯りに照らされているのも美しいと思う。
「俺が後ろから耳押さえとってやろうか」
「そんなこと言って、耳くすぐるつもりでしょう?」
「うへえ、信用がない」
「シアー、もうちょっとマシな護衛はいねえのかよー。町の外で見つけてこいよー」
「ましな護衛を探すより、馴染みの護衛に成長してもらう方が楽です」
きっぱりと彼女は断言する。
友人は感心したように手を叩いた。
彼は素直に喜べなかったが、いつもの調子で笑っておいた。
「がんばれ護衛。お嬢様はよっぽどオマエのことがお気に入りのようだ」
「これはもうナーシャ好みに成長するしかない」
「え、何。私がモナムソンを成長させるの?」
「ふつつか者ですがよろしくお願いいたします」
「小さな女学生に迫るでけえ兄ちゃんの図、ってのは、見てる方が恥ずかしい代物だな」
「いきなり素に戻らんでくれよ」
「アヒャヒャー」

いつもと違う雰囲気の中での馬鹿話もこれはこれで楽しいが、
あまり屋台に長居すると、友人の商売の妨げになりそうだ。
彼は落ち着かなげに辺りを見回し、彼女の袖を軽く引く。
「さて、アリーツィの顔も見たし、そろそろ帰るかな」
「オレの顔見たさにわざわざ夜市に来たって? オレにそんな趣味はないぜ!」
「俺にもそげな趣味ねえわ!」
お互いに言い捨てて、彼は屋台の外に出て表側に回り込んだ。
続けて彼女も出ようとする。
と、友人は「ちょっと待てよ」と、机の端の四角い大きなガラス瓶を指してみせた。
「わざわざ面白いモン見せてくれた礼だ。帰る前に好きな飴玉どれか持ってけ」
彼女の表情がぱっとほころんだ。
「わあ、ありがとう!」
どれにしようか、と、色とりどりの飴の詰まった瓶の前で、彼女はしばしにらめっこをする。
彼女が選ぶのに夢中の間に、友人は小さく彼に手招きする。
それに気付いて彼がすぐ正面に近づくと、友人は品物を並べてある机越しに、くい、と彼の耳を引き寄せ、
彼女にきこえないように、彼に耳打ちした。
「最近読んだ本でこんなのがあってよ。
 飴玉を浅い湯呑みに入れて、舌先で転がすように舐めると、口づけの練習になるとかなんとか、アヒャッ!」
聞き終わらないうちに、彼は無言で友人の額に手のひらを叩きつけ、耳元から思いっきりひきはがした。
手の下からは耳障りな笑い声がした。
この友人に謝罪の言葉は期待できない。
「何やってるんだよ、二人とも」
飴の瓶から目をはなし、彼女は呆れ顔で彼と友人を交互に見る。
先程の友人の言葉をそのまま伝えたとしても、彼女には理解できまい。
むしろ理解できるまで、突っ込んで訊いてくるに違いない。
「気にするなナーシャ君。それよりも早よ飴を選びなさい」
「アヒャー」
少し考えて彼女が選んだのは、蜂蜜の飴だった。
友人は瓶の蓋の留め具を外して開け、専用の小さなスコップを使い、彼女の指した飴玉をすくって取り出した。
彼女は手のひらを上に向けてその飴玉を包み込むように受け取り、そのまま口に放り込んで、片頬を飴の分だけふくらませた。
「モナは飴玉いらねえのか」
「要らんわ」
「シアからもらうんだな。わかるぜ」
「無理だよ、もう口に入れてしまったよ」
「いやいや、無理じゃねえよな?」
「耳を傾けるなナーシャ。今日のこいつはいつにもましてだめだ」
「飴も振る舞って、今日は実にいい友人だろー、なー」
「んー」
口の中で飴玉を転がしている様子の彼女に彼は口づけの話を思わず重ねてしまい、心の中で友人を何度も呪った。

結局、瓶の中の取りやすい位置にあったニラ茶飴を「今日の記念に」だとか主張する友人に押しつけられて、
彼はむぐむぐと飴を食べた。
はやく溶けろはやく溶けろとひたすら念じながら食べたのだが、
あっさりとした甘さの中にニラ茶特有のほろ苦さが少しだけあって、味が彼好みなのがまた一段と不愉快だった。
友人の屋台に向かって彼女は小さく手を振り、彼はぞんざいに手を振って、まだまだ騒々しい駅前商店街を後にした。

本当は夏越祭は打ち上げ花火で締めるんだよ、と彼女は言った。
――モナムソンにも見せてあげられたらよかったんだけど。
毎年この時期に聞こえていたのはそれだったのか、と彼は言った。
身体の芯に重く響く音が、この町に来る前の内戦の記憶を呼び起こし、今まで一度も家の外に出ようという気すら起きなかったのだ。

――そうか、打ち上げ花火か。
――耳伏せてたら何とか見られる、かな。
――大きい音が苦手なのに無理して見る必要はなかろう。
――ごめんね。
――いや、じゅうぶん楽しかった。ありがとう。

昔、両親に連れられて観に行った打ち上げ花火を思い出す。
今夜の祭りの打ち上げ花火も、きっと夜空に映えるだろう。