中二病
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・1組と3組

教科書とノートを抱えて理科室に行く途中、友人のクラスの前を通り掛かった。
教室前の廊下には机が一つ、教卓側の出入り口の脇にぽつんと出されている。
机の上にはひっくり返した椅子が載せられている。
椅子の背もたれの背面に差し込まれている名札用の台紙には、鉛筆書きの丸っこい象形文字が几帳面に並んでいる。
しかもご丁寧に、その文字列をぐるりと楕円で囲って、右端に曲線と接するように縦線を一本引いてある。
どこのファラオの机か、名前を解読せずとも明らかだ。
──こりゃ今日も遅刻だな、アイツは。
友人は、ここ二週間ほど、大きな仕事が入ったとかで夜遅くまで祖父の仕事を手伝い、翌朝起きられずに遅刻、ということを繰り返している。
学校に来ても、作業用ゴーグルを外し忘れていたり、手袋と間違えて軍手をはめてきたり、そんな調子だ。
すっかり日常風景の一部になってしまっていて、磨りガラスの窓の隙間から覗き込むまでの興味はなく、
そのままアリーツィは机の前を通り過ぎた。

チャイムより少し早く授業が終わり、わからない部分を先生に質問してから戻ってくると、廊下に小さなひとだかりができていた。
先程の、友人のクラスの前だ。
ひとだかりはアリーツィと同じクラスの生徒たち。
理科室から教室に戻る途中で、砂鉄が磁石に引き寄せられるように立ち止まっている。
椅子の象形文字のことが真っ先に思い出され、物好きな生徒が集って解読でもしているのかと考えたが、それにしては人数が多すぎる。
気になって近づいてみると、皆の顔は一様に教室の中に向けられていた。
どちらかといえば小柄なアリーツィには、背伸びしても向こうがどんな様子なのか確認できない。
尻尾を踏まないように踏まれないように用心しつつ、ひとだかりをかきわけ、隙間から教室の中を覗き込む。
真っ先に目に入ったのは、このクラスの担任の苦い顔。
担任ということは、古語の授業だ。
担任の視線をたどる。
頭の位置がひとりだけ低い、のはよくあることだ。
机は廊下にあるのだから、床に直座りで授業を受けなければならない。
今度座布団でも持ち込もうか、と友人が言っていたのは覚えている。
だが今日は違った。
友人の席にはこたつがあった。
詳しく言うと、台車に載せたこたつ、である。
こたつは普通の机よりも少々大きいため、周りの前後左右の席の位置が少しずつずれている。
あの幅ということは、教室の扉を外してから運び込んだのだろうか。
車輪付きということは、家から学校まで押して運んできたのだろうか。
想像すると何ともばかばかしい光景だが、友人にはよく似合う。
さらによく見ると、台車の台部分は畳になっている。おそらく一畳分だろう。
友人はこたつに入ったまま、真顔で何やら答えている。
教室の生徒たちはにやにやしながら友人をちらちら眺めている。
廊下の生徒たちもにやにやしながら友人に注目している。
「あいつやっぱり変だよな」「思っても普通は実行しないって」「器用なのか不器用なのか……」
友人が少し踏み外した感のある存在であることは薄々感じてはいたが、彼についての会話に耳を傾けているとやはりそうかと実感させられる。
「アリさん、アリさんじゃないか」
突然自分の名前が飛び出して、アリーツィは振り返る。
「アリさんはこたつ怪人と仲いいんだろ。いつもどんなこと喋ってんだ?」
こたつ怪人、とまで言われる始末だ。
「あー、アヒャー……。五次元について、とかー」
事実を答えただけで、周りがどっと笑う。
ここはあいまいに濁しておくべきだったかと少しだけ後悔する。
と、ずっと聞こえていた友人の声が途切れた。答え終わったようだ。
同時に、一限終了のチャイムが鳴る。
友人の方に視線を戻すと、眠たげな動作で廊下のざわめきに顔を向けるところだった。
目があった。
友人はいつものようににへらーと笑った。
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・放課後の廊下

土曜の授業は三限までで終わりだ。
一限終わりに見た友人の姿が尾を引き、教室の中にこたつがある光景がずっと頭から離れず、そのまま終礼の時間になってしまった。
帰りの礼が終わるとすぐに、級友たちは肩掛け鞄をひっつかんでばたばたと教室を飛び出していく。
そんな中、アリーツィはぐんにゃり席に座り込んで、片頬をぺたりと机の上につけて目を閉じた。
これではまるで、六限に体育があったかのような状態だ。
「アリさんまたなー」と挨拶代わりに頭を軽くはたいていく者もいたが、言葉を返すのもおっくうで、右手を挙げて応えた。
そうこうしているうちに、昼前というのもあって、皆教室からあっという間にいなくなってしまった。
だが、今日に限ってアリーツィは日直なので、同じように帰るわけにはいかない。
心の中で「ハイパークロックアップ」と唱え、尻尾をぱたりと床に叩きつけ、鉛のように重い身体を起こす。
まずは黒板に残る文字を消し、黒板消しを持ったまま窓際に行き、窓を開ける。
教室内と外気の温度差に、思わず首をすくめる。
窓から腕を出して、黒板消しを窓下の外壁にばしばしと叩きつける。
窓下の壁だけ目立ってペンキが剥げているのは、今までの日直たちの積み重ねの記録である。
冬晴れの日差しと冷たい空気の中、叩きつける音がこだまのように響く。
叩くたびにチョークの粉が勢いよく舞い上がり、そのまま風で吹き流される。
全部吹き散らされるのを見届けてから、黒板消しをいったん窓の桟の上に置き、今度は学ランの袖口についた粉を払い落とす。
開けっ放しの窓からは、冬の外気が絶え間なく流れ込んでくる。
息を吸うたびに喉の奥がきーんと痛み、少し咳き込む。
冷たい空気から早く逃れようと、窓を閉めて、端から一つ一つ窓枠のねじを回して鍵をかけていく。
全部の戸締まりの確認を終えて、黒板消しを定位置に戻す。
さて、次は学級日誌。
教卓に突っ込んである黒い表紙の学級日誌を引っ張り出してきて、廊下側一番後ろの自分の席に座りなおし、今日のページを適当に埋める作業に集中する。
日付を書き込み、それから正面の壁に貼ってある時間割を眺めて授業の欄に書き写す。
が、次に授業内容を思い出そうにもこたつしか浮かばず、溜息と共に頭を振った。
ノートを鞄から出して開き、そういえばこんな内容だったと思い出す。

──理科:割りばし燃やしたら黄色い汁
──国語:フェータル連呼
──数学:数学の乱れは心の乱れ

今日の欠席者の名前を確認し、学級閉鎖にはまだ足りないかなと数えてみる。
と、廊下の窓の向こうから、ぽつぽつ聞こえる話し声や足音に混じって、口笛が耳に飛び込んできた。
役場からの定時放送の一コーナー、夕方の天気予報のオープニングテーマだ。
それに合わせて勝手に頭の中でジャカジャカと軽快なギターの伴奏が鳴り響き、アリーツィはふきだしそうになった。
それが終わると次は、予報を読み上げる間に後ろで流れる歌の前奏が、間延びした口笛で演奏される。
続けて聞き覚えのある歌声。
本人は小声のつもりなのかもしれないが、あの妙によく通る陽気な声では無理がある。
──水すみーてー、空はあーおーくー、山はみーどーりー。
声だけ聞くとえらくご機嫌だ。いつにもましてお花畑だ。
歌声はだんだん近づいてきて、窓の磨りガラスにゆっくり歩く人影が映る。
「バカのお通りだバカのお通りだ」
影がすぐ近くまで来たときを狙って、窓の隙間から節を付けて茶化してみた。
歌声がはたとやみ、影もその場で動きを止める。
すぐ右隣の窓が勢いよくがらっと開いて、友人──モナムソンが顔を出した。
「ばか言う方がばかで、こんバカゴが」
「学校の廊下はオマエん家の風呂場じゃねーんだバカ」
「俺にだって歌いたくなることくらい……ある……!」
「そんなにいいことでもあったのか」
「まさか。職員室に呼び出されました」
最後に自分の名前を当番の欄に書き込み、アリーツィは埋め終えた日誌をぱたんと閉じて、再びモナムソンを見上げた。
「そりゃオマエ、学校にこたつなんか持ってくるから」
「他んやつがカイロ持ってくるのと同じことしただけやに、なしか」
この友人は冗談ではなく、本気で疑問に思っているようだ。
「カイロはポケットに入るだろ。こたつはポケットに入らねーだろ。わかるか? わかるよな?」
思いつきで適当に理屈をつける。少なくとも、友人の奇行をこれ以上加速させるようなことは言っていないはずだ。
少し間があり、やがて彼なりに理解したのか、うんうんと頷いた。
「あー。つまり、制服のポケットが基準になっとんわけやな」
その理屈だと、ポケットに入る大きさの持ってきてはいけない何かを堂々と持ってきそうな気がしたが、
訂正するのは、モナムソンの言うところの『よだきい』気分だったので、アリーツィはそのまま肯定することにした。
「そうそうそういうことだ。だから今日はおとなしく説教されとけ」
「そげなん、決まりがあるなら決まりがあると、校則にはっきり書いてもらわなわからんわ」
「普通は書いてなくてもわかるんだよ、暗黙の了解ってヤツだ。まったくバカは困るぜ」
「ポケットのことは今日覚えたけんもう大丈夫で。それじゃちょっくら先生に説教されてくる」
「あ、オレも職員室行く。日誌持ってかないと」

二人で職員室に行きがてら、ずっと疑問だったことを訊いてみる。
「なあなあ、モナ、あのこたつ、わざわざ家から学校まで運んできたのか?」
「乗ってきた」
「アヒャ?」
こたつに乗るとはまた変な表現だ。
聞き返したが、モナムソンは笑顔で頷く。
「ってことはオレも乗れる?」
「うむ。商店街まで乗せちゃるで」
得意げな返事に、嫌な予感がした。
慌ててアリーツィは顔の前で学級日誌を振る。
「いやいや家まで乗せろなんて誰も言ってねえよ。方向違うだろ」
「遠慮せんでいいっちゃ。な!」
結局、好奇心に負けて、押し切られた。

職員室出入り口手前の掲示板に先日の期末試験の成績が張り出されている。
「あ、成績出てら」
「ひっ、ひいっ、目がつぶれるっ」
モナムソンが顔を覆う仕草をする。
その隣で、アリーツィは淡々と順位表を眺める。
アリーツィはまず見上げ、モナムソンはまず見下ろし、そしてそれぞれが自分の名前を見つけた。
「いつも思うのですが、全員分張り出す必要はあるのでしょうかアリーツィ君」
「試験勉強しないモナが一方的に悪い」
「頭のいいやつにはばかの苦悩がわからんのだ」
「『バカは幸せになれない』って今週のモラナーさんでもあったろ」
「う、ぐ」
モラナーさんの名前を出せば、この友人は大抵反省する。簡単だ。
『おまかせ!モラナーさん』は木曜発売の──この町では金曜発売だが──漫画雑誌の連載で、近未来の学校を舞台にした発明コメディーだ。
漫画ならではの荒唐無稽な発明もさることながら、主人公モラナーが級友に外道なことをやらかすのが毎回の見所である。
「なしどれも点取れるんな。さっぱりわからん」
溜息混じりにモナムソンがぼやく。
「オレにもわからねえ。もうちょっと真面目に勉強すれば満点だったかもなー」
「なんという嫌み」
そうは言うが、数学はモナムソンもアリーツィも大抵満点だし、理科はいつもモナムソンに敵わない。

「進路希望の提出は」
「あー。家業を継ごうと思っとります」
ああそんなものもあったなと向こうの方で聞こえる会話を聞き流しつつ、アリーツィは自分の担任に日誌を渡した。
と、モナムソンの担任が自分を呼ぶ声がした。
聞こえなかったことにしておこうと耳を伏せつつ、けれどやはり無視はできずに顔を向けると、
今度ははっきりと、アリーツィに向かって手招きしているのが見えた。
困ったのにつかまった、と内心舌打ちをする。モナムソンの担任は、学年の進路指導担当でもあるのだ。
すると、今度はモナムソンが、担任の真似をしてしかつめらしい顔を作って手招きした。
不意打ちに、アリーツィは笑い出しそうになるのをぐっとこらえたものの、あきらかに挙動不審だったのだろう、
直後、モナムソンが背後から出席簿で頭をはたかれるところを目撃した。
もう逃げられないと観念し、渋々、モナムソンの隣に行く。
「おまえも出してないだろう、調査票」
「アヒャー、家業を継ごうと思ってます」
「あのな、いいかおまえたち、宣言じゃなくてだな。用紙に書いて締め切りまでに提出することが重要なんだ」
提出用紙の裏を、店番の売り上げメモに使ってしまったアリーツィと、こたつ作りの設計メモに使ってしまったモナムソンは、
お互い顔を見合わせて、「なくしたのでもう一枚ください」と口を揃えて言うしかなかった。
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